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院長プロフィール(詳細)

生い立ち

江戸時代から代々続く百姓の長男として、1970(昭和45)年に旧栗橋町大字中里で生まれました。人見知りの性格なのか、周りに同年代の子供がいなかったためか、よく母親に連れられて、畑の手伝いをしていました。当時の記憶で残っているものは、畑から見える富士山の絵をよく描いていたこと。数はどこまで続くのか、空を眺めては宇宙の果てはどこまで続いているのか、そんなことを考えていたような気がします。

幼稚園~小学生時代

栗橋町立栗橋第一幼稚園卒(人見知りの性格なのか、登園拒否数回)

栗橋町立栗橋南小学校卒 祖父、父、私、子供たちも含め4世代が通っていた地元の小学校。当時は周辺市町村の中で最も田舎な地区で、ひと学年1クラスの小さな学校だったためクラス替えの経験はありませんでした。遊ぶところもないので、春休みには渡された教科書をすべて読破し、誤字脱字や解法の間違いを指摘したり、もっと効率のよい解法があると出版社に手紙を送り、認められ記念品を頂いた経験もあります。

気が弱く低学年の時はいつも学校帰りにいじめにあい、泣いて帰ってくること数知れず。

そんな自分も成長とともにたくましくなり、6年生の時には児童会長に選出されました。

中学生時代

栗橋町立栗橋西中学校卒 (世の中に私立中学校が存在するなど露も知らず、なんの迷いもなく地元の中学校に進む。そして髪は丸刈りでした)。サッカー部に所属しサッカー漬けの毎日、北葛飾郡選抜から埼玉県東部地区選抜に選出され、国体埼玉県代表選考会にお呼びがかかりましたが、やはり浦和地区のレベルの高さに圧倒され県選抜には選出されませんでした。

高校生時代

埼玉県立春日部高等学校卒 サッカー部は雰囲気が合わず仮入部のみ、化学部に所属しました。古利根川の水質調査などすっかり文科系(社会系)になってしまいました。でも当時の夢はパイロットになること、苦手な物理が必要なことから勉強したところ近眼が進んでしまい断念、悩んだ末に「医学を目指す」ことに方向転換を決意しました。しかし成績は入学以来下降線をたどり偏差値40台に、高校3年夏の駿台模試の物理で3点しか取れずやる気を消失。年明けから勉強を始めるも当然浪人が決まりました。しかしそこから1日10時間以上の猛勉強を開始、偏差値は40台から一気に上昇し逆転合格(?)、一浪の末、何とか国立大学医学部に滑り込みました。

大学生時代

国立鹿児島大学医学部卒 入学後(やはり)サッカー部に入部、得技のドリブル突破とどんな体制からも打てるボレーシュートで西日本医学生体育大会3位の栄誉に輝きました。リーグ戦では、ハーフラインでボールを受けると単独ドリブルでゴールキーパーまで突破・・・(しようとして最後体力が持たずバランスを崩すみたいな)。鹿屋体育大学というところには、歯が立たなかった記憶があります。社会人チームに所属していた時期もありましたが、トラックに巻き込まれるバイク事故で意識不明で搬送され、幸い脳と骨は無事でしたが、右下肢打撲、右膝前十字靭帯断絶、半月板損傷、腓骨神経麻痺で靭帯再建手術、半年間のリハビリを経験しました(1年留年しました)。その後はサッカーはやめ、ボーリング同好会に所属し平穏な学生生活を送りました(最高スコア243点)。また勉強にも目覚め医師国家試験では自己採点で学年1位で合格させて頂きました。

医師になって 

卒業後全身を診ることができる内科の中でも、自分の興味のある脳神経系を主に扱う“鹿児島大学第三内科(神経内科・老年病内科)に入局しました。鹿児島大学病院及び関連病院で研修、卒後5年目から3年間、日本初のストロークケアユニット(SCU)が開設された大阪の国立循環器病研究センターで脳卒中集中治療の臨床・研究をさせていただきました。その後、九州循環器病センター(現鹿児島医療センター)脳血管内科勤務、2008年から神奈川県の聖マリアンナ医科大学脳卒中センターにて脳血管内治療(カテーテル治療)の研鑽を積み、5年間の修行の末、日本脳神経血管内治療学会専門医試験に合格、専門医として脳梗塞に対する血栓回収術、くも膜下出血、脳動脈瘤にたいするコイル塞栓術など脳外科とも協力し脳血管障害急性期治療に従事してきました。

2017年からは地方独立行政法人新小山市民病院脳血管内治療科部長兼神経内科副部長として赴任し、カテーテル治療を導入することで飛躍的に患者数が増加、2021年度には県内の大学病院等を抑え、脳梗塞受け入れ件数県内1位になるまで発展いたしました。

救急診療ではショック状態や心肺停止の患者さんの対応、専門とする脳卒中診療では、緊急カテーテル手術を行う一方、外来ではパーキンソン病の薬物治療、神経難病、認知症などの診療にも従事してまいりました。

日本DMAT隊員として災害医療に関わってきた経験から、災害時BCP策定、救護所設営・管理、現場指揮、シミュレーションなどにも参画、またコロナ禍となってからは、県庁に泊まり込んでのコロナ救急患者の入院調整業務にも協力してきました。
また2024年元旦に発災した能登半島地震では、震源地の珠洲市に医療支援として現地の医療を支える業務に1週間従事してまいりました。

* DMAT (Disaster Medical Assistance Team)

災害派遣医療チームとは、医師、看護師、医師・看護師以外の医療職及び事務職員で構成され、大規模災害や多数の傷病者が発生した事故などの現場で、おおむね48時間以内に活動できる機動性を持った、専門的な訓練を受けた医療チームである。

このような経験を、地域医療で貢献出来ればと、2026年当クリニックを開設しました。
地域かかりつけ医として内科、専門医として脳神経疾患の早期発見、診断・治療、慢性期の管理、再発予防・合併症管理から後遺症対策まで“トータルケア”を実践してまいります。

能登の帰り、妙高SAにて

余談 

私事ではありますが、栗橋の実家の蔵から発見された江戸中期に、幕府とやり取りした資料(久喜市指定 岡田家文書)によりますと、1783年の浅間山の大噴火で降り注いだ火山灰により利根川流域の各所で数年にわたり中小河川が排水機能不全となり、北関東広域で河川の氾濫が生じ飢饉が起きたようです。その際に当家ご先祖様が先頭に立って島川の土木事業を指揮したり、江戸幕府に年貢の減額を要望したりした記録が残されておりました。

岡田家文書によりますと当家は、江戸時代に(久喜市)中里村の名主を務めており、寛政期(1789~1801)には島中領用水組合の惣代も務めていました。その古文書は中里地区だけでなく、旧栗橋町の町域である島中領13村の水利をはじめ助郷、村政など多岐にわたる内容となっています。

市指定 岡田家文書|久喜市ホームページ

 

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